神奈川県演劇連盟
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■加 藤   衛■

加藤 衛 (かとう まもる)
 1914年、横浜に生まれ、上智大学に進みドイツ文学を専攻。卒業と同時にフンボルト財団奨学金による渡独を父死亡により断念。1944年海軍に応召、翌年敗戦により復員。1946年俳優座演出部入座、同時に横須賀第三高校教諭となる。1948年「演劇の本質」出版。1949年、鎌倉アカデミア、1950年東京水産大学、翌年横浜市立大学、俳優座付属俳優養成所それぞれの講師を兼任。1952年当時加藤を囲む幾つかの若者の演劇研究グループを統合して「横浜演劇研究所」を設立。加藤の持論である「演劇の日常化」を、研究所を母体にして実践して行く。以後の業績は「横浜演劇研究所」に重なり、更に全国的な視野と行動力で「神奈川県演劇連盟」(1960)、(日本アマチュア演劇連盟」(1961)、「横浜アマチュア演劇連盟」(1967)、「全日本アマチュア演劇協議会」(1972)、「日本アマチュア・青少年文化団体協議会」(1973)を関係者の皆様と共に立ちあげ、それぞれの責任者となる。その間に、ドイツ語圏戯曲50編の翻訳と10編の創作戯曲を発表している。3回にわたる、ドイツを中心とするヨーロッパ視察の他、日本アマチュア演劇連盟を「国際アマチュア演劇連盟」に加盟させ、横浜演劇研究所自体もその賛助会員とり、1971年には同連盟副会長に就任。
 これらの業績に対して、次のような表彰を受けた。
フンボルト財団フンボルト賞(1940)、NHK児童演劇脚本賞(1960)、神奈川文化賞(1968)、文化庁長官表彰(1978)、文部大臣表彰(1979)、日独アマチュア演劇交流促進功労賞(1985)、勲三等瑞宝章(1986)、横浜文化賞(1987)。
 1992年3月19日逝去・享年77才。

■黒 沢 参 吉■

黒沢参吉 (くろさわさんきち)
 黒沢参吉は川崎を中心に活動し、戦前から地域演劇をはじめた開拓者です。戦後は川崎・鶴見地区で建設座を立ち上げ、これが現在の京浜協同劇団母体になっています。劇作家であり劇団主宰者でありました。建設座の後期に書いた「日鋼室蘭」が長編戯曲の出発点。戦後の混迷する時代に労働者を主体にした演劇活動のはじまりでした。その頃これからの演劇は労働者の中でこそ必要だと、専門家志向の数名が建設座に入団しこのメンバーと共に川崎の3劇団が合同し、京浜協同劇団を結成します。黒沢はこの劇団の代表として、さらに全国リアリズム演劇会議の代表として活動し続けました。この間様々な作品を残していますが、主な作品は「炉あかり」「生まれた家」「俺たちの夜」「真土村一揆」などがあります。
 京浜協同劇団は1981年川崎市文化賞を受賞しますが、これは黒沢の長年の演劇活動にたいする功績の意味合いが強かったようです。
 黒沢はまた、川崎に劇団が一つというのは良くないと、川崎演劇塾の前身になる高津演劇教室を起こしています。黒沢は最晩年戸塚でほおずきの会をつくり最後の作品「サチの暦」を上演しています。
 1982年6月8日死去。享年65才。

■山 本 幸 栄■

山本幸栄(やまもとこうえい)
 劇団葡萄座が旗揚げ公演を行ったのは1946年8月で、創立以来のメンバーとして活躍したが、それ以前に、復員するとすぐに勤務先の貯金局で劇団「そろばん座」をつくり、菊地寛の「父帰る」を上演した。役所を辞めてプロの役者を目指したがままならず、アルバイトをしながら入団した葡萄座での活動を始めた。「麦の会」との関わりも持ちながら、やがて創設者の退団の後を受けて劇団の運営に次第に深くかかわることとなった。
 「明るく楽しい演劇を市民の中へ」を信条に、葡萄座を背負っての活動はアルバイト生活を続けながらのもので、その苦労は並大抵のものではなかったが、「横浜青年劇場」(市民劇団合同公演)、県立音楽堂フェスティバル参加の県演劇連盟による「神奈川県合同演劇祭」、横浜アマチュア演劇連盟による電業会館での「土曜小劇場」とスカイ劇場での「月例公演」、或いは当時横浜演劇研究所に事務局を置いた「日本アマチュア演劇連盟」主催の、県立青少年センターホールで毎年2月に開催された「全国アマチュア演劇研究大会」等で、葡萄座はいつも重要な役割を果たし続けてきた。
 横浜アマチュア演劇連盟の加藤衛会長、山本幸栄副会長、高津一郎事務局長によるアマチュア演劇活動の「横浜方式」の確立は、全国的にも注目されたものであった。葡萄座のこれらの活動に対し、1960年に「第8回横浜文化賞」、1976年には「第25回神奈川文化賞」を授与された。
 1955年春、野村芳太郎監督「次男坊故郷へ行く」に伴淳の若妻に扮した幾野道子の父親役で松竹映画に初出演。以後、野村監督の骨折りで、松竹と契約し、120から130本の映画に出演したが、葡萄座での変わらぬ活躍ぶりを見れば、やはりこの人は根っからの演劇人だったとの思いが強い。
 1985年4月3日逝去。享年60才。